foreword

成瀬麻紀子の夢 展/ひとこと
(2007年3月 かんらん舎・大谷芳久)

〈二匹のかにの子らが、青白い水の底で話していました。「クラムボンは笑ったよ」〉

で始まる宮沢賢治の童話『やまなし』は、水底にすむ蟹の美しくも哀しいお話。賢治の目は蟹となり、水中を透過する光や川面のきらめきを静かに眺めている。
成瀬麻紀子の絵を見た時、同質のまなざしを感じた。彼女の心は水になり、魚になり、絵は柔らかな光の色につつまれている。うつつの想いか、夜の夢のなす業か、青い夜空を飛ぶ魚たちに、夭折の画家、田畑あきら子の詩の一節が重なる。

〈わたしのたましいが、コップの水の時、地球は鐘と鳴り渡り、秋ね!
せつなさ、魚さ、魚になって、背びれ、尾びれ、水槽ごと、星に運ばれて、...〉

成瀬麻紀子の描く心象風景はどこか哀しみをおびて今にも壊れそう。その淡さ、はかなさが私の心を捉える。人はいったいなぜ芸術を求めるのだろう。
歌人塚本邦雄は「藝術は詩は美をもってする人間の魂の救済の他には、何の効用もない」と言い切った。美の創り手たちは自己の悲哀を人類の悲哀に、自己の喜びを人類の喜びに昇華させ、傷ついた人の心を癒す。対立する宗教が戦争を引き起こしている今を見る時、人を本当に救うのは藝術の美によってしかないと私は思う。

2007年4月3~27日 成瀬麻紀子の夢展

《静物》 トニー・クラッグと成瀬麻紀子 展/ひとこと
(2009年1月 かんらん舎・大谷芳久)

彫刻家トニー・クラッグは自己の作品について、「ボトは人体の隠喩なのだ」と語った。こんにゃく体操を創始した芸大教授の野口三千三も、「生きている人間のからだ、それは皮膚という生きた袋の中に、液体的ものがいっぱい入っていて、その中に骨も内蔵も浮かんでいるのだ」(『原始生命体としての人間』岩波現代文庫)と人体=水袋論を述べる。

1987年のクラッグの個展では、四角い卓上に転がせておけばいいとの指示とともに、磨りガラスの丸底フラスコ、三角フラスコ、メスシリンダーなど実験用器具が十数個届いた。フラスコもまた人間の胃の形をデザインしたものという。ボトル=人体とすれば、卓上のフラスコ群は大地の上で戯れる人間に姿に見えてくる。西洋では16世紀頃から卓上の瓶、壷、果物、花などを描く静物画が誕生し、日本でも大正期には岸田劉生、中村彝等が静物画の名作を残している。しかし、あくまで彼等が描いたのは主題としての卓上静物で、瓶や壷を人体の隠喩として捉えてはいないようだ。

成瀬麻紀子の水彩画《白いテーブル》。テーブルの片隅に一本の青い瓶がある。みずみずしい感性に満ちた美しい静物画だが、哀しい空気が漂う。引きこもっていた頃の絵だという。触れれば壊れそうなガラスの青い瓶は、一人たたずむ彼女自身の姿である。

静物 トニー・クラッグと成瀬麻紀子展

成瀬麻紀子のみづえ 展/ひとこと
(2015年6月 かんらん舎・大谷芳久)

仙台の冬の銘菓「霜ばしら」は繊細な飴菓子である。缶に詰まった米粉を少しどかすと、透き通った飴に端が見えてくる。指先でそっとつまみ上げると、はらりと欠け、口に含むと一瞬にうちに消えて行く。こんな「霜ばしら」のような心を持つと、人の世は生きにくい。

心の病で引きこもっていた成瀬麻紀子は、ある日、絵筆を取り、あるがままの心を写し始める。絵の具は水に溶け、彼女の心は「みづえ」となって綴られる。悲しみは悲しみのままに。窓ガラス、便せん、消しゴム、鉛筆すべてがかすんでいる《手紙》。丘の稜線の一部となった兎と遠い月《声》。途切れた大地に立っている倒れそうな少女《揺れる想い》。雲をぬって昇る《空への階段》......。

彼女の「みづえ」は、自らの羽を抜いては生地に織っていく「鶴の千羽織」のようである。「夕鶴」の「つう」が我が身を削ったように、成瀬麻紀子にとっても「みづえ」を描くことは身を削る行為だったろう。こうした芸術に触れた時、私はトマス・マンの言葉を反芻する。

何人も、己の生命を代償とすることなしには、芸術の月桂樹から、ほんのたった一葉をでも摘まみ取ることはできません(『トニオ・クレーゲル』大西巨人訳)

2015年6月30~7月18日 成瀬麻紀子のみづえ展

page top