〈二匹のかにの子らが、青白い水の底で話していました。「クラムボンは笑ったよ」〉
で始まる宮沢賢治の童話『やまなし』は、水底にすむ蟹の美しくも哀しいお話。賢治の目は蟹となり、水中を透過する光や川面のきらめきを静かに眺めている。
成瀬麻紀子の絵を見た時、同質のまなざしを感じた。彼女の心は水になり、魚になり、絵は柔らかな光の色につつまれている。うつつの想いか、夜の夢のなす業か、青い夜空を飛ぶ魚たちに、夭折の画家、田畑あきら子の詩の一節が重なる。
〈わたしのたましいが、コップの水の時、地球は鐘と鳴り渡り、秋ね!
せつなさ、魚さ、魚になって、背びれ、尾びれ、水槽ごと、星に運ばれて、...〉
成瀬麻紀子の描く心象風景はどこか哀しみをおびて今にも壊れそう。その淡さ、はかなさが私の心を捉える。人はいったいなぜ芸術を求めるのだろう。
歌人塚本邦雄は「藝術は詩は美をもってする人間の魂の救済の他には、何の効用もない」と言い切った。美の創り手たちは自己の悲哀を人類の悲哀に、自己の喜びを人類の喜びに昇華させ、傷ついた人の心を癒す。対立する宗教が戦争を引き起こしている今を見る時、人を本当に救うのは藝術の美によってしかないと私は思う。